ルイ・ヴィトンはファッション界の長嶋茂雄

2011.04.07

日本のファッション誌のこういった手法はヴィトンに限った話ではない。エルメスも、ダッチも、プラグも同じように特集されている。化粧品も洋服も同じような形で消費が促進されている。ではなぜヴィトンだけが突出して売れるのか。明確な答えはない。というよりも、私には明確にこれだと自信をもって答えることができない。あえていえば、これはもう総合力としかいいようがない。モノグラムという強力な定番と、高級ブランドでありながら、手頃な価格の商品がバリIIション豊富に揃っている商品力、売れ筋を逃さない強固な仕組み、強い販売力とアフターケアの充実、ファッション感度の高いセレブがヴィトンに夢中だと消費者に刷り込む広報戦略のうまさ、若い女性の可処分所得の高さ、厳然たる階級制度の不在から生じるブランド品に対する敷居の低さ、すべてが奇跡のようにうまく噛み合って、ヴィトンの強さを形成している。おそらくどれか一つでも欠ければ、ヴィトンの今日はなかったはずだ。それではヴィトンの際立った強さはいつまで続くのだろうか。業界紙の記者、他のブランドの日本法人社長、ブランドビジネスに携わる関係者にこの質問を投げかけると、誰もが「わからない」と答え、そしてこう続ける。「もうそろそろ限界に近い気もするが、四半世紀伸び続けてきたことを考えると、まだまだ伸びるかもしれない」飽和感でヴィトン離れが起きるのならば、もうとっくの昔に起きていても不思議ではない。ヴィトンの人気はもはや「飽和」のレベルを超えている。だから、ヴィトンの行く末についてはみな結論が出せないでいる。考えあぐねている。私か敬愛する編集者で、海外のラダジュアリブランドに精通する女性はヴィトンをこんな風になぞらえていた。ヴィトンをほかのブランドと並列に見ることはもうできない。いわゆる「ブランド」といっていいのかどうか。たとえるならば、いまやヴィトンは野球界の長嶋茂雄のような存在になったんでしょう。誰もが否定できないアンタッチャブルな存在、それが長嶋茂雄だ。ヴィトンは、すでに聖域に入ってしまったというのだろうか。この疑問を説く鍵を、雑誌のインタビューに答えた秦の発言から見ることができる。(ヴィトンは)自分自身の生活が充実し、みんなと同じレベルで豊かであると感じるために必要な商品なんだと、私はとらえています。ルイ・ヴィトンはいまや、持てば上流階級というのではなく、持だないと豊かなマジョリティ層から外れてしまうという、一種の強迫観念を持つような商品になっているんじゃないですか。それがないと、自分が取り残されてしまうという強迫観念に近いものが、消費者にはあるような気がする。(マドラ出版『広告批評』一九九七年九月号)所有することで「ワソラソク上の階層」に上がったような気分と満足感を与えてくれるのがブランド品であり、だからこそ階級差のない(少ない)日本では他人との差異を図るためにブランド品が売れるのだ。よくいわれる説であるが、ルイ・ヴィトンジャパンの社長はヴィトンはそうではないと否定する。「てショリティの⊇貝であると自己確認するための必需品がヴィトンなのだ」と分析している。二〇〇〇万人以上もの日本人が所有するブランド品を持ったところで、ワソラソク上の感覚は望みょうがない。おそらく秦の分析通り、ヴィトンは大衆の高級必需品となり、他のブランドとは異なる領域−つまりは野球界における長嶋茂雄−に達したのだ。